ファルコンとはなんだったのか

2018年当時、私はアメリカに留学していた。いろいろと困難なことがあり、心が折れそうなことは何度もあったが、テクノロジーの進歩のおかげで、日本のエンタメに触れ続けることができ、そのおかげでなんとか生き延びていたところがある。

 

その中でもっとも大きな拠り所だったのが、アルコ&ピース D.C. GARAGEという深夜ラジオだ。

日本時間だと深夜0時から始まるのだけど、西海岸では朝っぱらなので、私はしっかりその時間に起きて、授業の前に大好きなラジオを聴く。

サマータイムでラジオの開始時間が変わるとか、授業で聴けないときはタイムフリーの恩恵にあやかるとか、日本で0時に聴くラジオとは、少しだけ違った。

そんなことを、短い9ヶ月の留学生活中、毎週していた。

 

6月に最後の学期が終わろうとしていて、もうすぐ日本に帰れるというとき、大好きなラジオは唐突に燃えた。

深夜ラジオなんて、一部のリスナーがパーソナリティとひっそり戯れている場所なのに、それがその場の空気感なしに乱雑にまとめられて、又聞きの又聞きのように知った外野に燃やされる、なんてことは、パーソナリティの先輩方もよくしていることだけど、まさか大した知名度もないアルピーがその対象になるとは思わなかったし、槍玉に挙げられた話題が、当時の私にとっては本当に予想外のことだった。

それは、「アベンジャーズからファルコンを脱退させよう」という企画であった。

TBSラジオのホームページに、来週はこんなことやるよ!と上げたものが、非リスナーに拾われて、こんなものはけしからんと延焼していったように思う。

 

ライブドアニュースへの取り上げられ方はこんな感じ。

記事に使われてる画像が古くてビジュアルイメージに齟齬が出ると困るので当時のビジュアルも見て。今はまた雰囲気違うんだけど、当時のビジュアルとてもいいので見てください。

左 平子さん でかい方、家族持ち満喫してる方

右 酒井さん やばい方、シングル満喫してる方

よくない?

 

当時の批判ツイートを掘り出す気力はないので、リスナー側からの偏った記憶で申し訳ないけれど、この炎上は何層かに分かれていて、一元的なものではなかった。

まず、「自分の好きなコンテンツにケチをつけている輩がいる」という事実に反射的に不愉快さを表明する人たち。

これに関しては、アルピーが売れない芸人であるという視点と、アベンジャーズが世界的コンテンツであるという視点が混じり合って、かなり高圧的で一方的なものも多かった。「マーベルに喧嘩売るなんて」とか鼻で笑ってる人もいた。このタイプの人たちがかなり多かったのだけど、これだけならほとんど問題はなかったと思う。タイプの異なる人間が、出会うはずもなかったのに出会わされてしまったときに起こる摩擦で、どうせこれからも交わらないんだから放っておけばよかった。

 

問題だったのは、「人種差別である」という批判だ。

このご時世、そんなことをやらかしてしまえば、一つの番組くらい簡単に終わってしまう。

この論調が広がっているとき、私は大好きな番組が終わってしまう恐怖に駆られて、問題の本質を知ろうと必死だった。

 

まず、なぜこの番組がこんな企画に至ったのかと言えば、アベンジャーズ履修済みのアルピーのでかい方こと平子さんが未履修のアルピーのやばい方こと酒井さんにアベンジャーズを布教し、見始めた酒井さんの初見の感想をみんなで聞く、という流れが数週間前に始まった。話が進むにつれ、酒井さんがファルコンの能力に疑問を持ち始める。

他のアベンジャーズに比べて地味だとか、飛んでるだけで大したことをしていないとか、そういう感じのいじりだ。何も急に脱退させる!とか言い始めたわけじゃなくて、数週間に渡り、シリーズを見た感想を語ることでじわじわとファルコンというキャラクターの印象を形成していったという過程があるため、キャラクターがそういう取り上げられ方をされるのが嫌だと言う人は、数週間前にとっくに切ることができているのだ。

あと、炎上後に無関係を装っている平子さんがこの流れを作ったのも分かる。

嫌なら見るな、と言いたいわけじゃないけれど、聴いてもないのに語るな、と思っていた。

 

具体的な時系列は以下の通り。公式の略称が分からないので、サブタイの頭文字をくっつけてある。

ちなみに当時の私はアベンジャーズ未履修だったので、これを機に全部見た。楽しかった。

 

アベンジャーズにファルコンは必要ない」というお笑いは、たしかにキャラクターやファンに失礼である。だからそういう視点で怒っている人には、ごめんなさい、しか言うことがない。

だけど人種差別って何? 

アルピーがファルコンに言及したところすべて聴き返したけど、一度も人種には触れられておらず、ファルコンを知らないリスナーは彼が黒人だと知ることもなく脱退まで進んでいく。

じゃあこれがホークアイいらなくね?なら良かったわけじゃん? 人種によって扱い方が変えられるってそれこそ差別じゃん、とアメリカにいながら思っていたわけである。

 

そのときに私が思い出したのは、ガキ使でエディーマーフィーの扮装をした浜ちゃんが、ブラックフェイスの歴史をなんだと思っているのだと怒られた件だ。

 

黒人差別ということを考えるとき、本当の解決はそんなもの意識することなく、なかったことにするのが正解なんじゃないの?

アイアンマンにならしてよくて、ファルコンにはしてはいけないことがあるなら、その現状だって差別の延長で、人種によって判断しているわけではない事柄にまで人種を持ち込んできている側こそが差別主義者なんじゃないの?

そんな人たちにポリコレで殴られて番組終わらせられたらたまったもんじゃないんですけど、とは書かなかったけど、それくらいは思っていた。

 

そのもやもやを綺麗に解消してくだっさったツイートがこちら。

 

「まだそれはしてはいけなかった」という表現が、とてもしっくり来た。

差別に無意識でいることの尊さは認めつつも、まだそういう段階ではない。

そして、ファルコンの人種に言及していないじゃないか、という反論は、ここにおいて成り立たない。ファルコンというキャラクターは、そもそも「そういう」キャラなのだ。

 

マイノリティの経験と、それを強いてきたマジョリティの歴史は、無意識であることを許さないほどに辛いものだということから、私は目を逸らしていたのだと思い当たった。

 

そういうことを咀嚼した上でもまだ私はこんなことを言っている。

深夜ラジオってさあ、メディアと言ってもさあ、みたいなことをぐだぐだ思い始めるである。

そんな中で深夜ラジオと社会の狭間にいるような荻上チキさんが炎上を受けて、ご自身のラジオ(Session-22、帯番組でアルピーdcgの前時間帯番組にも当たる)で話してくださったことが、そういうぐだぐだした気持ちも汲み取ってくれるように、

ディスコミュニケーションの問題」という視点についても取り上げてくれた。告知サイトは不用意であったし、踏んではいけないところを踏んでいるから、番組側の問題はもちろんあるが、ディスコミュニケーションもたしかにあったよね、というリスナーにも優しいチキさん。泣いた。

おぎやはぎ爆笑問題も、それぞれの手法や視点で触れてくれて、本当にありがたかったんだよなあ。

 

こういったことを経て、1週間後についにこの企画の放送日がやってくるんだけど、私はアメリカでの放送時間、朝から期末試験を受けていて、リアタイをすることができない、という地獄だった。番組側がどういう理解をして、どういう対応をするかは全然読めなくて、やり方次第ではもっともっとおおごとになり、許してもらえなくなって番組終了の流れが見えてめちゃくちゃ不安だった。

しかし単位が必要なので粛々とテストを受け、しかもそれが留学最後のクラスだったから、なんかクラスメイトとお別れとかして、先生にも最後の挨拶をした。

この授業というのが、留学生向けに開講されたアメリカの移民の歴史についてのもので、先生もアメリカの人種問題が専門。

そんな授業受けててその程度の認識だったんすかァ?と言われると、返す言葉もないのだけど、そこは一旦ご容赦いただいて、こんな機会だし、と先生に経緯を話してみることにした。

深夜ラジオ文化を知らない人とのディスコミュニケーションが起きるのに、日本語話者ではない人に英語で説明するのは結構難しかった。話しながらなんだこの企画、と何度も思った。ファルコンを脱退させよう!って何?

「やっぱり差別意識がなくても許されへんもんなん?」ということをメインに尋ねた。

私が、「歴史的に非道な差別があったのは分かるけど」と言おうとすると、それは「歴史」でも「過去」でもない、と彼女は強い口調で遮った。

 

私がここ1週間で見ていたのは、現在進行形の反差別で、それに対して私が置いていたのは過去形の差別だった。

だけど、今でも人種差別は世界中で起きていて、それを是正しようという動きが無力なほどに、その力は大きい、と彼女が始めたとき、ああ、私は何かを「知って」いても、何も「分かって」なんていなかったんだ、と頭がすーっと冷えていくのを感じた。

反差別の先頭を行くようなアメリカは、同時に差別の温床でもある。私はカリフォルニアの片田舎の大学で、外国人にもわりと理解のある環境でぬくぬくと留学生活をしているけれど、今だってこの世界では、それは起きているのだ。

 

あなたが差別主義者でないことは分かるし、日本人の認識はアメリカのものとは違うことも想像できる。

だけどあなたは、差別をしない、という、言い換えれば何もしないという選択ではなく、差別を許さないというパワーの一部になるべきだ、と彼女は言った。

 

この社会は無色透明ではなく、マジョリティによって付与された「意味」に溢れている。

あなたがこの問題で、その「意味」に無意識であることを「平等」だと思っているのならそれは違う。「無知」だ。

これはあなた個人の問題ではないが、あなたはその意味を知る必要がある。

その向こうにしか「平等」はない。

 

だから私たちは戦い続けないと。

 

大学からアパートまで自転車で帰り、荷造りをして、次の日の朝には空港に行った。

空港で飛行機を待つ間に、放送を聴いた。

ラジオを好きでよかった、と心の底から思った。笑いながら泣いていた。

この思いと、一連の批判は、両立しうると信じている。

 

東京に帰って、大学に戻ってからも、このことはずっと頭にあった。

私の主な関心であるジェンダーについて大学で学んでいうちに、ああ、これはジェンダーの問題にも当てはまるんだ、と思い当たる。正の方向に力を注ぎ続けないと、事態はあまりにもあっけなく悪い状態に戻る。だから私は、その正のパワーの一端であり続けなければいけない、と誰に説明されることもなく思っていた。

これは自分が「女」という性で、「意味」を付与された側だからこそ気付けただけで、当事者意識のない問題について、私はあまりにも無知であった、と急に腑に落ちたのだ。なんというか、身になった気がした。

 

先のR-1の野田クリスタルさんの決勝ネタ、女性のストッキングをハサミで破る、という表現に不快感を示す人に、そこに特に意味なんてない、過剰に反応する方がおかしい、という受け流しをする男性を見て、1年半前のこの一連の騒動を思い出したのだ。

日常の何気ない場面で性暴力の危機を感じ、自分の体があまりにも簡単に搾取される無力さに苛立ち、ストッキングなんて薄っぺらなものを破る、という行為に性的な意味を付与されてしまった性別に生まれた私には、その無関心が攻撃に見えた。

女性への性暴力が蔓延ることは知っているけど、それとこれとは別でしょ? ネタじゃん? という人は、知っていても分かっていないのだ。

私がしていたことってこういうことだったのか、と、1年半くらい経って急に腑に落ちた。

 

ただ、このストッキンング姉さんというゲームは、R-1に先立って、アルピーの深夜番組でも披露されていて、私は事前にそれを見ている。そのときには、もちろん好意的には受け止めていないが、社会的な問題としては捉えていなかった。

私は「メディア」を細分化して捉えていて、深夜ラジオや深夜番組といった、比較的少数の、かつそれを目的で集まってきている人に向けられた番組に、社会性を求めてはいないのでは、と思う。

たとえば、ゴールデンの特番で、「ファルコンいらないよね? 脱退させようぜ!」となったのなら、燃えて然るべきと思う。というか、そりゃ燃えるでしょ、という感じ。

たとえば、おぎやはぎのメガネびいきの恒例企画、ヤれそうな女性芸能人をランク付けする「妄想総選挙」がひっそりと存在することは、積極的に肯定せずとも否定はしない私と、2018年末の週刊誌の「ヤれる女子大生ランキング」は積極的に否定したい私の矛盾は、たしかに存在するのだ。場と、対象と、語られ方の、総合点でアウト判定をしているのであって、絶対的な基準がない。

 

この感覚は主観的にもやや問題を感じるが、現時点の感覚として残しておくとして、その上で、R-1では「ナシ」なのだ。R-1は社会的な場だし、ストッキングを切られる対象にあまりにもキャラクター性がないために、非アウトにもってく材料もない、と私が恣意的に判断しているため、あれは受け入れられなかった。しかし、そうではない人たちにとっては、「わざわざ見に来て文句つけるなよ」でしかいない、ということは私は身をもって知っている。

 

やたら冗長になったけれど、今残しておきたいことはこんなところだ。

もう少しアルピーdcgというラジオの文脈についても語りたかったけど、それを「社会的なこと」と綯い交ぜにしちゃうと、「個人的なこと」が侵害されてしまうような気がする。

アルピーのラジオに興味を持ってくれたら、アルビーannの「お茶会」「ホームアローン」なんかを聴いてほしい。あんなに最高だったann終了を経てのこの騒動だったから、また終わっちゃうかも、の恐怖がリアルだったんだよあ……。

 

SNSで赤の他人の「個人的なこと」が可視化されたときに、それをむやみに「社会的なこと」に変換して批判するのって、危険なのかもなあ、とこれらを通じて思うけど、でも個人的なところからしか、社会って変えていけないよね、とも思うのだ。

難しいよ、簡単になんていかない。

完璧に矛盾なく、正しいことを語るには、私には好きなものが多すぎるし、正しいことだけでは辛いときに生き延びられなかった。

 

だけど私にしか見えないものがあるし、それが私の世界だし、それだって何かの足しにはなるだろうと信じてる。

 

私は今現在、そういうところにいる、という話。

あー、このアメリカ最後の1週間、メンタルやばかったけど、めちゃくちゃ楽しかったし、これがなかったら、今の私はまた別の生き物だったんだろうなー。

 

 

ファルコンってなんだったんだろう。

 

あなたみたいになりたいです

 雨に散らされた桜が、アスファルトの地面に汚く張り付いていた。儀式めいたことを粗方終え、これから同級生たちとご飯でも食べに行こうと通いなれた校舎から出て行く。でも私には、まだやり残したことがあった。まだ、あの人に会っていない。

 卒業式の日に、最後に思いを伝えたかったのは、3年間片思いをしていたあの人じゃなくて、片思いよりもずっと重い憧れを貫き通した人だった。あの人は国語の先生だった。週に何度か授業で会う。二人きりで話したことなんて、きっと数えるほどしかない。授業のノートにびっしり書き連ねた言葉が、交換日記みたいに甘くて、それでいてとてつもなく重かった。あの人は私の行く人生を、確実に生きづらくした。

 

 傘を指したあの人がいた。ああ、見つけられてよかったと、心底思ったし、今でも思う。どうもお世話になりまして、いえいえこちらこそ、なんて、いつになく穏やかで、大人びたやりとりだった。今日で最後かもしれない。人生でこの人に会うのは、最後かもしれない。実際、あれから今日まで、あの人に会っていない。そんなことを、きっとあの人も考えていたと思う。あの人は少し子供っぽくて、傷つきやすくて、脆い人だった。でも、もう別れていく私にそんなところは微塵もないみたいに、よく出来た大人みたいに、物分かりのいい先生みたいに振る舞うのが、私に痛いほど最後を感じさせた。

 

 「どんな大人になるんやろうなあ」なんて、他人事みたいに、あの人が言った。まるでこれから私が、あなたなんて関係なく時を過ごして、あなたにもらったものを全部手放して、涼しい顔して、気楽に大人になってくみたいに。そんなこと、できるわけないのに。そうできなくしたのは、あなたなのに。

 伝えたい言葉があった。どうしても言いたいことがあった。自分の人生をまっすぐ肯定なんてできていないであろうこの人に、伝えなきゃ気が済まなかった。

 

 「あなたみたいになりたいです」

 

 楽しいばっかりじゃなかったに決まってる。この人は私には想像もできないような苦しみの末に、こんな仕上がりになったんだって、あの頃の私にもなんとなく分かった。それでも私は、あなたみたいになりたい。それであなたの行く道が、せめて寂しいものではなくなったら、そんなに幸せなことって、ないと思う。

 あなたのことが好きで、あなたの生き方が好きで、あなたの生きてきた時間が、あなたのこれから生きていく人生が、どんなものでも、あなた自身が好きになれないところも、私はあなたのことなんてほんのちょっとしか知らないけど、あなたは私に、一番脆くて柔らかくて深いところに触れさせてくれたから、私はそれを、ずっとずっと抱きしめて生きていきたい。

 そして私がこれから行く道が、あなたの辿ってきた道と同じだといい。同じところに、向かっていけたらいい。同じ暗闇を、歩いていけたらいい。一緒に生きていけなくていい、あなたが振り返ってくれなくていい、背中なんて、見えなくていい。触れられなくても、声が聞こえなくても、私のことなんて、少しも思い出してくれなくていい。ただ私は、あなたの大事なものを、手放さない生き方がしたい。そういう思いを、全部全部込めた。一世一代の告白だった。

 あなたはそういう気持ちを、たった15歳の少女に残していったのだと、知ってほしかった。大きなお世話だろうけど、あなたの人生の持つ意味の大きさを知ってほしかった。

 

 二人とも傘を差していた。お互いの傘が当たらないだけの距離。手を伸ばそうなんて思わない。私には、あの人の物理的なぬくもりなんて、必要なかった。

 「それはやめといた方がいい」なんて照れたように笑ったあなたが、寂しくて、愛おしくてたまらなかった。

 

 あなたに出会わなかった人生を想像してみる。そこには「私」なんて存在しない。左胸にぽっかりハートの形の穴が空いた、私の形をした何かかいるだけ。でもその私もどきはきっと、私なんかよりきっと上手く生きていくんだと思うと、出会えてよかったなんて、簡単には言えなかった。だけど私は、あなたに出会えた私が好きだ。好きだと、あなたにもらった心を抱えて生きてきて、なんとか言えるようになった。この先もずっと同じ気持ちでいられるかなんて、分からないけど、少なくとも今はそう思う。

 

 大好きも、ありがとうも、しっくり来なかった。

 私があなたに伝えたかったのは、一方通行な憧れと、あなたを一人にしたくないという、押しつけがましい愛みたいなもので。別にあなたの気持ちなんて一つも必要としないから、きっとこの思いは、私の人生において数少ない、不変のものなんだと思うんです。

 卒業式の後、離任式で彼が転任すると知った。たしか入学してきたときに転任してきたんじゃなかったか。運命だと、そんなことを思った。言葉を交わす機会はなかったけれど、会話なんて二次的な手段なので、私はしたためてきた手紙を職員室の彼の机の上に置いておいた。何を書いたかほとんど覚えていないけれど、きっと今持っている思いと大して変わらない、うざったい憧れをだらだらと綴ったんだろう。追伸、と書き足したことだけ、はっきりと覚えている。

 

「やっぱり、あなたみたいになりたいです」

 

 またあなたに会えることがあったら、同じことを伝えたい。

 もう「やめとけ」なんてあなたが言えないような、「勝手にしろ」とあなたが諦めてしまうような、そんな人間になっていたい。

 

 

たった9ヶ月のアメリカのこと

やたら空が青かった。初めてここに来た日も、ここを離れる日も。たった一人でここに来て、またたった一人で帰っていく。今の私は、9ヶ月前の私と、何か変わっているのだろうか。ままならないことばかりだった。分からないことばかりだった。それは今でも変わっていなくて、結局最後の最後まで、ここは私にとっての非日常だった。

私はきっと、人よりも非日常を楽しむ能力に乏しい。いかに日常を愛するか、いかに愛するに値する日常を作り上げていくか。私の人生は、そういった作業の積み重ねだった。日々いろんなことに慣れていって、未知の事柄を既知に変え、居心地の悪い場所を居心地のいいものに変えていく。初めてのことは嫌いだ。それでも私は、それらがいずれ好きに変わることを知っていたから、そういう匂いのするものに臆さなかった。

アメリカでは、そういう匂いが全然しなかった。私の鼻が働かなかった。私のそういった感覚は、ほとんどの、いや、大部分を言語に頼っていたということを、明確に思い知った。それなりに英語は話せる。相手の言っていることを、少なくとも事実は理解できる。大学の専門的な授業も受けた。テストだって乗り切った。でも、言語とは、そういった事象を伝達するためだけのものではない。この人はこういう場面でこういう言葉を使うのか、この人の言葉選びはなんだか好きだ、この言葉をこういう場面で使う人は気に食わない。積み上げた偏見の塊が、あの日を境に何の意味も持たなくなった。私は人の言う事実になんて、彼のした何かになんて、さほど興味がなかった。彼らがそれをどう表現するのか。それによってある人を好きにも嫌いにもなった。そういう、これまで感じてきた、そして依存してきた感覚が、突然奪われたような感覚だった。

ここでも、たくさんのことを既知のものにしていった。生活をするということは、そういうことだ。私は間違いなく、ここで生活をした。そう言って、いいと思う。朝起きて、ご飯を作り、食べ、学校に行く。クラスメイトや教授と話す。スーパーで食材を買う。店員は、日本よりもよく声をかけてくる。部屋に帰ればルームメイトがいて、今日はどうだった?なんて反応に困る会話の切り出し方をされる。そういったことに、日々慣れていった。したことがあることが圧倒的に増えた。できるようになったと言えることもそれなりにあるだろう。だけどそれらを、自分の日常にできたかと言えば、何かが素直に肯定することを阻む。

それは、日本という国への、文化への帰属感情なのかもしれない。日本に帰属しながら、日本の文化を楽しみながら、アメリカの中に自分の立ち位置を見出す人もいるのだと思う。だけどそれを上手く両立させるには、私は日本の文化に、価値観に染まりすぎたし、アメリカには私を繋ぎとめるものが少なすぎた。私は20年近くかけて、日本での生活を日常にした。それが世界の中のわずかな人口によって作られている局地的な価値観だということには、つい最近まで無自覚だった。私は狭い世界の中で生きづらさを感じ、その中で自分が好きになれるものを探して、見つけて、そして自分のものにした。その過程が、すべて日本語文化の中で済まされてしまったというのが、私にとっては不運だったとも言えるかもしれない。しかしそれはある種の必然でもあり、私は自分の好きを判定するのに、自分の経験をすべて投入するが、私の引き出しは圧倒的に日本的な価値観、日本語で満たされているのだ。私は、自分の経験で測れないものを、好きにも嫌いにもならない。判定することを放棄している。その「経験」というのが、言語に依存しすぎていた、というのは、否定することができないと思う。

東京に移り住んだときに感じた興奮は、そういった日本語文化圏の中での多様性と出会ったことへの歓喜だったのだと思う。今、ここで東京への正当な評価を下すことはとても難しい。離れたから分かる大切さみたいなものによって、過大評価にしかなりえないからだ。私の東京での生活は、寂しかったし、つまらなかったし、どうしようもなかった、ということは、忘れてはいけないと思う。あの華やかな土地が、私という個人までを彩ることはないと、私はひとりっきりのワンルームで確信したはずだ。

期末試験が終わって、友達や先生にお別れを言って、また会おうねなんてきっと叶いもしない、叶えようともしていない約束をした。学校から自転車を漕ぎ出す。ダウンタウンで銀行に寄って、銀行口座を閉めて。家までの、すっかり通い慣れた道を行った。これで最後だと思ったら、涙が止まらなかった。

私は、ここも好きだ。草の匂いがする風と、痛いくらいの日差し、ちっぽけな私をあざ笑うかのような青すぎる空が。How’s goingとやたら聞いてくる人たちが。明らかに自分が求められている感覚が。その要求に応えられなくて、悔しい思いもした。だけど自分を表現したとき、彼らは絶対にそれに耳を傾け、そして何かを返してくれた。そういったやりとりの積み重ねが、私を確かに疲弊させたけれど、やはり私は嬉しかったのだと思う。尋ねられたことのないような質問を、いくつも受けた。答えに窮することもあった。しかしそれらが、私の奥底から感情を引っ張りだしてくれることもあった。

私は、ここが好きだと言っても、いいのだと思う。ここで生きている私が、もどかしくてたまらなかったけど、嫌いじゃなかった。求められて、答えて、それに興味深く反応してくれる彼らが、好きだった。彼らにすべてをぶつけられる自分でありたかった。話し出すと止まらなかった。友達なんて呼ばないような知り合いと、将来のこと、自分のアイデンティティのこと、いろんなことを話した。私は、この文化の一部になりたかった。いいや、違う。そんな高尚なものじゃない。ここで出会った人たちが、好きだった。アメリカなんていう大きなものは、未だによく分からない。来る前よりも分からなくなった。ただ、私が出会った、アメリカ人ともくくることのできない、この国で暮らす人たちを好きになった。そういう、9ヶ月だったのだと思う。

アメリカの抱える矛盾を、ずっとずっと感じてきた。その答えが知りたくて、アメリカに行くことを決めた。答えなんて分からない。それでも、ここには確かに矛盾があって、日々が戦いなのだということを肌で感じた。彼らの社会問題は、日本でいうそれよりもずっと生活に根付いていた。日本人が無関心すぎるとか、そういうことではないのだと思う。彼らはとにかく動きまくるから、明確な問題が次々と起きる。それにあらゆる人が意思を表明し、もっと大きな問題になるが、特に解決するわけでもない。そういった問題の集合が、アメリカという国だという気さえする。

成田に着く。曇っている。全然空が青くない。なんだかとても、落ち着く。

東京のワンルームに着く。テレビを付ける。ラジオを付ける。普通に日本語が聞こえてくることが、私にとってはとんでもなく大切なことだったのだと思う。

もう終わりだ。行ってよかった。行かなきゃいけなかった。ちゃんと行けた。

本当に、ありがとうしか出て来ない。一人じゃなんにもできなかった。これまで出来てるような気になってたことも、慣れと惰性の産物であって、私の努力なんて何も関係ない。

アメリカにいる人、まじで馴れ馴れしかったな……。東京行きの乗り場に行った途端、急に知らない人から話しかけられなくなった。

長い夢だった気がしてきた。

くっきりと残ったサンダルの日焼け跡だけが、私があそこにいたことを確かにする。だけど、これが消えた後にも、私の深くて柔らかいところに、人知れずこの日々は宿るのだろう。そういう、日々だった。

 

もう音楽が時代を超える時代じゃないのかもしれないけれど、そんな時代でも音楽ってやつは。

 

 上京してから、音楽ライブに行くことは、観劇に並ぶ義務であるような気がしていた。楽しいことがあふれるこの街での限られた時間を、無駄にしないための言い訳のような行為。詳しいことは分からない。しかし、好きなアーティストはいる。彼氏も友達もいないし、バイトのシフトを出し忘れたので、大げさではなく、何一つ予定のなかった2016年末、大型音楽フェスに出かけた。

 

 このフェスというものについては私もよく分かっていないのだが、私の行ったものは、広大な会場の中に複数のステージがあり、常にどこかしらのステージで、バンドだったりシンガーだったりが30分とか1時間とかの持ち時間、パフォーマンスをするというイベントで、観客はどのアーティストを見るのも、途中入退場も自由。この会場の高揚感のようなものについても記録しておきたいが、ひとまず置いておいて。

 

 

 1228日。一人で出かけて、久しぶりのライブの熱気にあてられ、ほとんどの時間を数多ある売店を冷やかしたり、食事を取ったりして過ごしていた。たくさんのアーティストが出演しているが、ほとんどが数曲知ってはいるが、大好きというほどでもない、という程度だった。それでもこちらに楽しむモチベーションがあればなんの問題もないのだが、そんなものがあったら、こんなつまらない生活を送っていない。

 

 そんなやる気のない22歳の体の中に残された若さのようなものを、奮い立たせる音楽があった。なんとなく見に行こうと思ってはいたが、大型イベントの風物詩、女子トイレの行列につかまり、ステージの外から聴いた。音楽性がどうとか、最早関係ないないのだと思う。きっと、体が一番元気だった頃の記憶は、脳の中で一番元気なのだ。勝手にこの曲を聴いていた頃の細胞が引っ張り出されて飛び跳ねるような感覚。

 

 自身の最大のヒット作を歌ったあと、ボーカルの男性が「この曲は10年前の曲だ」とおもむろに言った。会場にいたおそらく私と同年代の男女が、は?と信じられないような反応を見せる。嘘だろう、とそんな一体感も、確かに音楽がくれるものだろう。

 

 彼が熱い言葉を放つ。自分の目指す音楽を語る。その中身は、どうでもよかった。ただ私が胸を打たれたのは、10年経って、まさかこの人に会えたということ。別に大ファンだったわけじゃない。好きだったらライブに行けばよかった。でも違う。お、〇〇いるじゃん、くらいの興味でふらりと彼に出会えたということ。アルバムが1枚だけ、私の何台か前の携帯に入っていた。今のiPhoneには1曲も入っていないけれど。ヒットした数曲だけじゃない、そのアルバムの中の、全然有名じゃない曲でも、意外といいじゃん、と、思春期の日々になんとなく聴いていた、あれを作った人たちと、ふいに会えたということが、奇跡のように思えた。何を考えてるのか、どうやって音楽に向き合って、ここまで来たのか、それを直接聞けた。それが、とんでもないことのように思えた。

 

 もう一つ、さらなる衝撃をもたらしたバンドがいた。それこそ今から10年前、小学校高学年くらいから中学生まで、狂ったように聴いていたバンド。今ほど周りの音楽の趣味が細分化されておらず、クラス全員が知っている音楽というのが、ギリギリ残っていたときの話だ。CDの貸し借りとか、この歌詞がどうだ、とか、仲がいいわけでもない友人との共通項に成りえた、今考えると、“前時代的”な音楽の在り方。

  それがホールに流れると、一気にみんな歌いだす。かつての教室をそのまま持ってきたような雰囲気に、鳥肌が立った。この広い会場に、もう会うこともないかつてのクラスメイトがいても、何もおかしくなかった。

 

  直接見たことも、ましてや話しているところだってほとんど見たことがなかった。なんとなく、HEY HEY HEYとかに出てたことは覚えてる。ボーカルが3人いて、でも彼らの印象は、歌声と見た目だけで、だけど不思議なもので、誰が好みだとかいう話題は盛り上がった。そんな彼らが、ほんとに歌ってるところを、10年越しに見る。なんと不思議なことか。うわ、しゃべってる。実在したんだ。わ、変な動きしてる! 変わってない! 不思議なもので、「変わってない」と思った。見たこともなかったくせに。

 

 

 今、大好きなアーティストがいる。10年前も、存在くらいは知ってたけど、こんなに好きになるとは思わなかったアーティスト。彼が、恐らく、直接会うこともなく、音楽だけで長く付き合ってきたファンと自分の関係を「『声』だけの幼なじみ」と表現していた。

  ああ、それだ、と思った。親しい友達なわけじゃない。ずっと近況を報告しあってきたわけじゃない。ただ、10年前、一時期仲良く遊んでもらってた。最近どうしてるかなんて、こちらから知ろうとしなかったけど、元気にしてるって知ると嬉しくて、あの頃教えてくれた歌を一緒に歌うと、今抱えてるいろんなものから解放されて。自由になれる気がした。

 

 

 ソニーWALKMANのキャッチコピー「10代で口ずさんだ歌を、人は一生、口ずさむ」の意味を、初めて体感できた気がした。将来口ずさみ続ける歌との出会いを、一通り終えたということに、焦りのようなものを、感じないわけじゃない。でも、その蓄積を、私は人並みに出来てたんじゃないかな、となんとなく思うのだ。

 音楽ファンと言えるほど詳しくないけど、人生を共にする音楽には、ちゃんと出会い、一緒に遊んで、あと60年くらい、あらゆるシチュエーションで口ずさめるくらいの質と量の幼馴染を、持っていると、根拠もないが思える。

 

 きっとまた、どこかでふいに彼らと対峙したりして、「元気でやってた? こっちは元気だったよ」と言うんだろう。素敵じゃないか、そんな人生。

 

 日々が新しい出会いばかりではなくなった。少しずつ、再会が増えていく。これが、年を重ねるということなのだろう。

 まだまだ慣れないのだ。未知との遭遇は、飽きるほどしてきた。それへの備えのようなものも、身に着けてきた気がする。だけど、再び出会うこと、それもきっと、新しく出会うこととはまた違う、美しさを孕んでいるのだと、確信できた。

 

 ありがとう、またどこかで、会いましょう。