たった9ヶ月のアメリカのこと

やたら空が青かった。初めてここに来た日も、ここを離れる日も。たった一人でここに来て、またたった一人で帰っていく。今の私は、9ヶ月前の私と、何か変わっているのだろうか。ままならないことばかりだった。分からないことばかりだった。それは今でも変わっていなくて、結局最後の最後まで、ここは私にとっての非日常だった。

私はきっと、人よりも非日常を楽しむ能力に乏しい。いかに日常を愛するか、いかに愛するに値する日常を作り上げていくか。私の人生は、そういった作業の積み重ねだった。日々いろんなことに慣れていって、未知の事柄を既知に変え、居心地の悪い場所を居心地のいいものに変えていく。初めてのことは嫌いだ。それでも私は、それらがいずれ好きに変わることを知っていたから、そういう匂いのするものに臆さなかった。

アメリカでは、そういう匂いが全然しなかった。私の鼻が働かなかった。私のそういった感覚は、ほとんどの、いや、大部分を言語に頼っていたということを、明確に思い知った。それなりに英語は話せる。相手の言っていることを、少なくとも事実は理解できる。大学の専門的な授業も受けた。テストだって乗り切った。でも、言語とは、そういった事象を伝達するためだけのものではない。この人はこういう場面でこういう言葉を使うのか、この人の言葉選びはなんだか好きだ、この言葉をこういう場面で使う人は気に食わない。積み上げた偏見の塊が、あの日を境に何の意味も持たなくなった。私は人の言う事実になんて、彼のした何かになんて、さほど興味がなかった。彼らがそれをどう表現するのか。それによってある人を好きにも嫌いにもなった。そういう、これまで感じてきた、そして依存してきた感覚が、突然奪われたような感覚だった。

ここでも、たくさんのことを既知のものにしていった。生活をするということは、そういうことだ。私は間違いなく、ここで生活をした。そう言って、いいと思う。朝起きて、ご飯を作り、食べ、学校に行く。クラスメイトや教授と話す。スーパーで食材を買う。店員は、日本よりもよく声をかけてくる。部屋に帰ればルームメイトがいて、今日はどうだった?なんて反応に困る会話の切り出し方をされる。そういったことに、日々慣れていった。したことがあることが圧倒的に増えた。できるようになったと言えることもそれなりにあるだろう。だけどそれらを、自分の日常にできたかと言えば、何かが素直に肯定することを阻む。

それは、日本という国への、文化への帰属感情なのかもしれない。日本に帰属しながら、日本の文化を楽しみながら、アメリカの中に自分の立ち位置を見出す人もいるのだと思う。だけどそれを上手く両立させるには、私は日本の文化に、価値観に染まりすぎたし、アメリカには私を繋ぎとめるものが少なすぎた。私は20年近くかけて、日本での生活を日常にした。それが世界の中のわずかな人口によって作られている局地的な価値観だということには、つい最近まで無自覚だった。私は狭い世界の中で生きづらさを感じ、その中で自分が好きになれるものを探して、見つけて、そして自分のものにした。その過程が、すべて日本語文化の中で済まされてしまったというのが、私にとっては不運だったとも言えるかもしれない。しかしそれはある種の必然でもあり、私は自分の好きを判定するのに、自分の経験をすべて投入するが、私の引き出しは圧倒的に日本的な価値観、日本語で満たされているのだ。私は、自分の経験で測れないものを、好きにも嫌いにもならない。判定することを放棄している。その「経験」というのが、言語に依存しすぎていた、というのは、否定することができないと思う。

東京に移り住んだときに感じた興奮は、そういった日本語文化圏の中での多様性と出会ったことへの歓喜だったのだと思う。今、ここで東京への正当な評価を下すことはとても難しい。離れたから分かる大切さみたいなものによって、過大評価にしかなりえないからだ。私の東京での生活は、寂しかったし、つまらなかったし、どうしようもなかった、ということは、忘れてはいけないと思う。あの華やかな土地が、私という個人までを彩ることはないと、私はひとりっきりのワンルームで確信したはずだ。

期末試験が終わって、友達や先生にお別れを言って、また会おうねなんてきっと叶いもしない、叶えようともしていない約束をした。学校から自転車を漕ぎ出す。ダウンタウンで銀行に寄って、銀行口座を閉めて。家までの、すっかり通い慣れた道を行った。これで最後だと思ったら、涙が止まらなかった。

私は、ここも好きだ。草の匂いがする風と、痛いくらいの日差し、ちっぽけな私をあざ笑うかのような青すぎる空が。How’s goingとやたら聞いてくる人たちが。明らかに自分が求められている感覚が。その要求に応えられなくて、悔しい思いもした。だけど自分を表現したとき、彼らは絶対にそれに耳を傾け、そして何かを返してくれた。そういったやりとりの積み重ねが、私を確かに疲弊させたけれど、やはり私は嬉しかったのだと思う。尋ねられたことのないような質問を、いくつも受けた。答えに窮することもあった。しかしそれらが、私の奥底から感情を引っ張りだしてくれることもあった。

私は、ここが好きだと言っても、いいのだと思う。ここで生きている私が、もどかしくてたまらなかったけど、嫌いじゃなかった。求められて、答えて、それに興味深く反応してくれる彼らが、好きだった。彼らにすべてをぶつけられる自分でありたかった。話し出すと止まらなかった。友達なんて呼ばないような知り合いと、将来のこと、自分のアイデンティティのこと、いろんなことを話した。私は、この文化の一部になりたかった。いいや、違う。そんな高尚なものじゃない。ここで出会った人たちが、好きだった。アメリカなんていう大きなものは、未だによく分からない。来る前よりも分からなくなった。ただ、私が出会った、アメリカ人ともくくることのできない、この国で暮らす人たちを好きになった。そういう、9ヶ月だったのだと思う。

アメリカの抱える矛盾を、ずっとずっと感じてきた。その答えが知りたくて、アメリカに行くことを決めた。答えなんて分からない。それでも、ここには確かに矛盾があって、日々が戦いなのだということを肌で感じた。彼らの社会問題は、日本でいうそれよりもずっと生活に根付いていた。日本人が無関心すぎるとか、そういうことではないのだと思う。彼らはとにかく動きまくるから、明確な問題が次々と起きる。それにあらゆる人が意思を表明し、もっと大きな問題になるが、特に解決するわけでもない。そういった問題の集合が、アメリカという国だという気さえする。

成田に着く。曇っている。全然空が青くない。なんだかとても、落ち着く。

東京のワンルームに着く。テレビを付ける。ラジオを付ける。普通に日本語が聞こえてくることが、私にとってはとんでもなく大切なことだったのだと思う。

もう終わりだ。行ってよかった。行かなきゃいけなかった。ちゃんと行けた。

本当に、ありがとうしか出て来ない。一人じゃなんにもできなかった。これまで出来てるような気になってたことも、慣れと惰性の産物であって、私の努力なんて何も関係ない。

アメリカにいる人、まじで馴れ馴れしかったな……。東京行きの乗り場に行った途端、急に知らない人から話しかけられなくなった。

長い夢だった気がしてきた。

くっきりと残ったサンダルの日焼け跡だけが、私があそこにいたことを確かにする。だけど、これが消えた後にも、私の深くて柔らかいところに、人知れずこの日々は宿るのだろう。そういう、日々だった。