あなたみたいになりたいです

 雨に散らされた桜が、アスファルトの地面に汚く張り付いていた。儀式めいたことを粗方終え、これから同級生たちとご飯でも食べに行こうと通いなれた校舎から出て行く。でも私には、まだやり残したことがあった。まだ、あの人に会っていない。

 卒業式の日に、最後に思いを伝えたかったのは、3年間片思いをしていたあの人じゃなくて、片思いよりもずっと重い憧れを貫き通した人だった。あの人は国語の先生だった。週に何度か授業で会う。二人きりで話したことなんて、きっと数えるほどしかない。授業のノートにびっしり書き連ねた言葉が、交換日記みたいに甘くて、それでいてとてつもなく重かった。あの人は私の行く人生を、確実に生きづらくした。

 

 傘を指したあの人がいた。ああ、見つけられてよかったと、心底思ったし、今でも思う。どうもお世話になりまして、いえいえこちらこそ、なんて、いつになく穏やかで、大人びたやりとりだった。今日で最後かもしれない。人生でこの人に会うのは、最後かもしれない。実際、あれから今日まで、あの人に会っていない。そんなことを、きっとあの人も考えていたと思う。あの人は少し子供っぽくて、傷つきやすくて、脆い人だった。でも、もう別れていく私にそんなところは微塵もないみたいに、よく出来た大人みたいに、物分かりのいい先生みたいに振る舞うのが、私に痛いほど最後を感じさせた。

 

 「どんな大人になるんやろうなあ」なんて、他人事みたいに、あの人が言った。まるでこれから私が、あなたなんて関係なく時を過ごして、あなたにもらったものを全部手放して、涼しい顔して、気楽に大人になってくみたいに。そんなこと、できるわけないのに。そうできなくしたのは、あなたなのに。

 伝えたい言葉があった。どうしても言いたいことがあった。自分の人生をまっすぐ肯定なんてできていないであろうこの人に、伝えなきゃ気が済まなかった。

 

 「あなたみたいになりたいです」

 

 楽しいばっかりじゃなかったに決まってる。この人は私には想像もできないような苦しみの末に、こんな仕上がりになったんだって、あの頃の私にもなんとなく分かった。それでも私は、あなたみたいになりたい。それであなたの行く道が、せめて寂しいものではなくなったら、そんなに幸せなことって、ないと思う。

 あなたのことが好きで、あなたの生き方が好きで、あなたの生きてきた時間が、あなたのこれから生きていく人生が、どんなものでも、あなた自身が好きになれないところも、私はあなたのことなんてほんのちょっとしか知らないけど、あなたは私に、一番脆くて柔らかくて深いところに触れさせてくれたから、私はそれを、ずっとずっと抱きしめて生きていきたい。

 そして私がこれから行く道が、あなたの辿ってきた道と同じだといい。同じところに、向かっていけたらいい。同じ暗闇を、歩いていけたらいい。一緒に生きていけなくていい、あなたが振り返ってくれなくていい、背中なんて、見えなくていい。触れられなくても、声が聞こえなくても、私のことなんて、少しも思い出してくれなくていい。ただ私は、あなたの大事なものを、手放さない生き方がしたい。そういう思いを、全部全部込めた。一世一代の告白だった。

 あなたはそういう気持ちを、たった15歳の少女に残していったのだと、知ってほしかった。大きなお世話だろうけど、あなたの人生の持つ意味の大きさを知ってほしかった。

 

 二人とも傘を差していた。お互いの傘が当たらないだけの距離。手を伸ばそうなんて思わない。私には、あの人の物理的なぬくもりなんて、必要なかった。

 「それはやめといた方がいい」なんて照れたように笑ったあなたが、寂しくて、愛おしくてたまらなかった。

 

 あなたに出会わなかった人生を想像してみる。そこには「私」なんて存在しない。左胸にぽっかりハートの形の穴が空いた、私の形をした何かかいるだけ。でもその私もどきはきっと、私なんかよりきっと上手く生きていくんだと思うと、出会えてよかったなんて、簡単には言えなかった。だけど私は、あなたに出会えた私が好きだ。好きだと、あなたにもらった心を抱えて生きてきて、なんとか言えるようになった。この先もずっと同じ気持ちでいられるかなんて、分からないけど、少なくとも今はそう思う。

 

 大好きも、ありがとうも、しっくり来なかった。

 私があなたに伝えたかったのは、一方通行な憧れと、あなたを一人にしたくないという、押しつけがましい愛みたいなもので。別にあなたの気持ちなんて一つも必要としないから、きっとこの思いは、私の人生において数少ない、不変のものなんだと思うんです。

 卒業式の後、離任式で彼が転任すると知った。たしか入学してきたときに転任してきたんじゃなかったか。運命だと、そんなことを思った。言葉を交わす機会はなかったけれど、会話なんて二次的な手段なので、私はしたためてきた手紙を職員室の彼の机の上に置いておいた。何を書いたかほとんど覚えていないけれど、きっと今持っている思いと大して変わらない、うざったい憧れをだらだらと綴ったんだろう。追伸、と書き足したことだけ、はっきりと覚えている。

 

「やっぱり、あなたみたいになりたいです」

 

 またあなたに会えることがあったら、同じことを伝えたい。

 もう「やめとけ」なんてあなたが言えないような、「勝手にしろ」とあなたが諦めてしまうような、そんな人間になっていたい。